羊をめぐるお話

18日の「ただイマ!」ご覧いただきましたみなさま、どうもありがとうございました〜!
この番組。
「コメント中に怒涛の強制終了アリです」
と聞いていたのですが。
そして。
最後、私に振られたのでがんばって時間内に!と思ったのですが。
あえなく。
……私で強制終了という。
………まあ、そんな感じでして(汗)。


明るく仕立てておりましたが、メインテーマの発達障害の話は、本当に重いものでして。
最後のほうで、私が言いたかったのは、下記のような感じなんですが。
まず、医療技術の進展により血液検査などで早期発見が可能になる、それ自体は素晴らしいことだと思います。
発達障害は、よく家庭のしつけの問題や、愛情不足、などと偏見をもって語られがちなのですが。
それが「単なる機能障害である」と証明されることによって、ご家族、とりわけ母親の重荷は軽減される可能性は高いと思います。
ただ問題は、社会の側が受け容れる準備が整っていないのではないか、ということでして。
何より、「障害とは物理的・社会的環境との齟齬から派生するものであり、個人の非劇モデルに終始されるべき問題ではない」という社会モデルの観点が欠落したまま、ただ発達障害判定の適応範囲だけが拡大すれば、いたずらに当事者への偏見を煽る結果ともなりかねません。
精度の高い発見や治療方法の向上は、何より障害当事者が抱える「社会との関係性を取り結ぶことの困難の解消」という目的に寄与すべきですが、社会の側の偏見が解消されなければ、かえってスティグマが増すばかりで逆効果となる恐れもあります。


近年では、精神科医対象の調査などを見ても、発達障害の相談件数が増加してきているそうです。
コミュニケーションに悩みを抱える方が増えてきている、ということの証左のように思います。
これは治療対象として一般の認識が広まったことに加え、今日の社会がコミュニケーション重視型に傾いてきている点が大きいと、最後の方で私も言いました。
一般の職場でも、プロジェクトなどを進行させたり、多様な働き方をしている方(社外の方や嘱託、派遣など)とコミュニケーションをとる必要性が高まっているとの指摘もあります。
産業構成比を見ても、物を相手にする製造業などが縮小しており、いわゆる「感情労働」であるサービス業や福祉・医療などの割合が増えてきています。
それだけ他人の感情を読み、高度なコミュニケーション能力を要請される社会となってきるといえます。
かつてならば高倉健さん演じる人物のように、寡黙で不器用なタイプでも、誠実さや実直さと結び付けて評価されてきたものが、どんどんマイナス評価に転じていると、番組でも言いましたね。
だから、社会が要請する「望ましい人間像」が変化している点も見逃せない、と。
ただ問題としては。
「現時点に最適化」することだけが本当に望ましいのか……ということでして。
極論すれば、「今」望ましいタイプの人間も、この先時代が変化すれば「時代遅れ」になる可能性だって否めません。
昨今のように、誰もが空気を読み合うばかりでは、独創性や進取の気勢に乏しい社会になってしまうのではないか。
やがてもっと創造性が重視される社会になれば、「望ましい人間像」も変わるのではないか。


話をしながら、先日亡くなった吉本隆明さんを思い出していました。
私は、晩年講義データを収集させていただき、大変お世話になった方なのですが。
橋爪大三郎先生が、吉本さんを「群れから逆走する羊」とたとえていらっしゃったのが、非常に的を射ていて。
日本人は、強烈な同調圧力の「空気」に飲みこまれ、それへの熱狂的賛同以外の可能性がなくなるとき、間違いを犯す。
これが、吉本さんが戦争体験から得た、強固な自覚であったと思います。
だからつねに、同調圧力が高まる可能性を察知したとき、群れから逆走する「羊」だったのだろうと。
この世には、悪以上にあやしい善がはびこりやすい。
なるほど、晩年吉本さんが親鸞研究に進まれたのも、非常によく分かります。


同調圧力は、あらゆるかたちで、今なお私たちを覆っています。
昨今の「空気を読めないといけない」という風潮の問題は、多くの人が、それを「自分の中の違和感を消去すること」と読み違えていることではないでしょうか。
でも違和感とは、そもそもあって当たり前のものです。
それこそが、自分の「核」を表明するものだからです。
コミュニケーション力とは、本来同調圧力への参入度合いではなく、違和感とのつきあい方を意味するのではないのでしょうか?
それは、自分の違和感を説明することでもありますが、同時に他人の違和感を理解することでもあります(とても難しいですが……)。
まあ、私も人のことはまったく言えた義理ではなく。
『黒山〜』でも書きましたが、集団生活は苦手というより「不可能」でしたからね〜…。
幼稚園に入ったときから、お迎えのバスを「同じ制服を着た子どもたちが整列しているだけで恐い」という。
どれくらい恐かったかというと、もう頭が沸騰しそうなくらいの恐怖で、鼻血をふいて倒れるレベルでしたからね〜……。
今、この本入手しづらいんですが(力が足りなくて……)。
電子書籍化されていて、光文社サイトからならば買えます、宣伝失礼します。

光文社電子書店|本店ショールーム


まあ、そんな次第で。
私の場合、
「自分が感じる社会との巨大な違和感をきちんと言葉で説明できれば生きていけるはず、っていうか説明できないからいけないのだ」
と思っているうちに(一応)社会学の研究者となり、それでもまだ強固に残る違和感が開口部を見いだせず、うろうろしているうちに詩書きにまでなってしまい……。
という出鱈目な人生です。
それでも、まだ、違和感は消えません。
というか、これがあるから書きつづけているような状態です。
ここまでくると、違和感はもはや心の友です。俺の歌を聴け状態です。
もういい加減、違和感の方も逃げたがっているかもしれませんが、死ぬまで一緒でしょう。




さて、お知らせです。
本日付、東京新聞「新聞を読んで」コラム、水無田担当回です。
今回は、犠牲者が出てようやく規制へと急に動き出した高速ツアーバスや、老朽化したホテル火災など、安全対策軽視体質の日本社会の問題について、書かせていただきました。
原発事故で、「体質改善」されたかと思ったのですが、まだまだですね〜……。
よろしければ、どうぞご高覧ください。