ありがとうございます〜。
本村由紀子さんと→playlog.jp
小飼弾さんに→404 Blog Not Found:ペア書評 - やればできる/無頼化する女たち
『無頼化する女たち』について書いていただきました〜。
ありがとうございます〜(ふかぶか)。
というか。
みなさん。
……速いっ(汗)!
私。
……亀っ(涙)!
ちなみに。
小飼さんのご著書なんですが。
たまたま、私が来春発刊予定の、ローカル鉄道本の版元の編集者さんと打ち合わせの際。
「そういえば、今度うちから小飼さんの本が出るんですよ」
と言われたので。
「へー、面白そうですね〜、へ〜、ほ〜、ふ〜ん……」
と言って、微笑みながら、7秒ほど編集者さんのお顔を見つめたところ。
「……あとでお送りします」
というような次第でして。
お礼に、小飼さんに、自著送付させていただきました〜。
この稼業をやっておりますと。
「微笑みの本くれ攻撃」ばかりが上手くなってきた自分に気がつきます。
だって!
せちがらくって涙がでちゃう! 書籍費研究費がでないんだもん! 非常勤講師なんだもん!
……という次第でして。
みなさま、いつもありがとうございます。
いただいたのは、こちらです。
- 作者: 小飼弾
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核になるのは2つの提言で、1つめは、「社会相続」。これは、なんと「相続税100%」というもの。すごい。
全員死んだら、財産はすべて国家のもの、という……。
ニューディール後のアメリカの「大圧縮」時代でも、そこまでは行きませんでしたが、これくらいインパクトのある提案はいいかもしれません。
2つ目は、ベーシックインカム。
これは、ミーンズテストによる選別主義的福祉に対するアンチテーゼですね。
ともかく、社会の構成員全員に、最低限の生活費を保障する、という提言です。
通常、市場による分配とは、諸個人の「能力に応じた分配」ですが。
社会福祉による再分配というのは、通常の生活水準より下回る何らかの事情を抱えた人たち(典型的なのは、障害者や母子世帯など)の「ニーズに応じた分配」です。
現在、日本では公的扶助のかたちで付与されるのは、実質生活保護ばかりですが。
これは厳しいミーンズテストや、利用者のスティグマがともないますし、事務手続き費用もかかる。
というわけで、全員最低限生きていくだけの糧は保障しよう、というんですね。
財源は、死んだら全員が滞りなくとられる遺産の総体でまかなうべし、と。
この提言は、実行性云々以前に、「これくらいのことをやらねばならないくらい、現在の日本は、再分配や相互扶助などが機能不全を起こしている」という事実の指摘のように思えました。
それらが、不安の源泉ともなっている、と。
内閣府「国民生活に関する世論調査」(2009)では、「日頃の生活の中で、悩みや不安を感じているか」の質問に対し、「悩みや不安を感じている」と答えた者の割合が68.9%と、極めて高くなってきています。
だから、お金持ちも不安だし、だれもが蓄財に走るのは理の当然でしょう。
ちなみに。
自由主義的傾向を擁護する基調として、「富裕層に富を集中させれば、その人たちが景気よくお金を使ってくれるので、貧困層もおこぼれに預かれる。このため結果的に社会は豊かになる」という「トリクルダウン」が言われますが。
小飼さんのような人が、はっきり「トリクルダウンは嘘」と言うのは、信憑性がありました〜(笑)。
グローバル化の最中、資本や雇用、それに生活スタイル全般の流動化は避けられないことですが、それらの問題点を補完する(はずであった)セーフティネットは、現在、瓦解してきています。
失職が即ホームレスにつながるような社会では、雇用の流動化が適正な人材配分に結びつくとは、とても思えません。
前提がおかしいまま、流動化が断行されてきているのです。
この間、黒山もこもこ、抜けたら荒野 デフレ世代の憂鬱と希望 (光文社新書)でも指摘したとおり、中間層は解体されてきました。
要約すれば、日本型雇用慣行を中心とした「会社村」、相互扶助を実質丸かかえにしてきた「家族」、それに旧来の地域社会などが、その機能の「代替なき縮小」を繰り返してきたことのツケがまわってきているのが、現在の日本です。
この最中、ソーシャルキャピタル(良好な人間関係)は衰退してきています。
だから、不安→頼れるものはお金だけ→ますます社会はぎすぎす→以下、繰リ返ス、となるのですが。
それらの解決案として「社会相続」というのは、面白い発想だと思いました。
実際問題、ニーズをもつ人たちへ再配分するための「もと=財源」が不足しているのが現状です。
2000年の社会福祉基礎構造改革以降顕著になりましたが、いかにしてニーズ(生活困難)を抱える人々を「自立」させるのかが、この国の課題となっています。
措置から契約へ、の流れが端的に示していますが、福祉サービス内容も、自己決定せよという方向性ですね。
また自立を志向する制度や事業は、ざっと思い浮かべただけでも、障害者自立支援法、母子家庭等就業・自立支援センター事業、高齢者雇用安定法などがあります。
これらは言い換えれば、生活保護の主要な受給対象者に、職業自立をうながすものです。
財源不足の現状に対し、受給対象者自体を減らそうという流れにも見えます。
ほかにも、財源不足を補うために、民活、行政の効率化、市民セクターの導入等、さまざまな議論がなされているのですが。
本書の場合、社会相続によって大元の財源問題を解決し、同時にベーシックインカム導入によって、今社会に生きている者同士の互酬関係を強化する、という発想でしょうか。
ただ、ちょっとこれは慎重になったほうがいいかな〜と思ったのは、第10章の「安心して死のう」の中で述べられた、末期医療の延命放棄の議論です。
無駄な延命治療は拒否すべし、これは安楽死の肯定につながるわけですが。
これを、筆者のような強い個が主張することは、かまわないと思います。
ただ、これが本当に可能な「自己の尊厳」を真に尊重できる人が、今の日本にどれほどいるのか、と。
たとえば、オランダ2001年に、医師による安楽死を認める刑法改正がなされ、「安楽死合法化」がなされたわけですが。
内容は、(1)患者の自発的意思、(2)耐えがたい苦痛、(3)治癒の見込みがない、(4)担当医師が第三者の医師と相談、などの条件をみたせば、安楽死をもたらした医師の行為を刑法上の犯罪とはしないこと。さらに、未成年(オランダでは17歳以下)の場合、12〜15歳については親の同意が必要だが、16歳以上では親の同意がなくても安楽死を選択できる、というものです。
ただしこれは、よく誤解されるように、医師による積極的な「自殺幇助」を容認するものではありません。
オランダで行われている安楽死や自殺幇助のほとんどは、「がんの末期患者で、自分では何もできなくなった状態の余命予測2、3日以内の人で、最長でも2、3週間の屈辱感に耐えられないという患者」であり、安楽死の自己決定は、単に身体上の「痛み」だけではなく、「屈辱感に耐えられない」ため、「自己の尊厳」を守るために行われるというものです。
ちなみに、オランダで安楽死という言葉が用いられる場合、通例患者自身の意思と継続的な訴えにより、最期の手段として行われる「積極的で自発的な安楽死」を意味します。
また、消極的安楽死の代わりに彼らは、「無駄な治療を終わらせること」という言い方を好む傾向があります。
この点が、アメリカの安楽死協会であるヘムロック協会のような団体が、「合法化された安楽死」を要求する場合の主張との主たる違いです。
要約すれば、オランダの場合、安楽死合法化の基底には、コミュニケーションと他者との関係性、それを基盤とする自己の尊厳の尊重、これらが横たわっています。
ホームドクター制度が、プライマリ・ケアとコミュニティ医療を大幅にカバーしている点も大きいですが。
第1に、他者との関係で「自己の生死の問題を共有」すること。
第2に、治る見込みのない治療を施すのは「無駄」であるという合理主義。
この文化基調とコミュニティのあり方が、死生観を構築していると言えます。
オランダの合理主義精神には目を見張るものがありますが、これは日本に即座に導入可能かどうか。
日本の場合、良好で緊密なコミュニティ医療が、まず未整備です。
また、そもそも西欧的な意味での「自己決定する主体」に馴染んではいません。
だから、安楽死を選択する人の多くは、「自己の尊厳」よりも「人様の迷惑」を考えて、決断してしまうでしょう。
もし早急に安楽死合法化が制度上整えられたとしたら、この「超高齢社会」では、おそらくは医療費削減の方便に使われてしまう可能性も高いと思われます。
オランダも、安楽死合法化には20年もの議論がありました。
日本は、この手のことを市民レベルで討議する土壌が乏しいのも問題です。
これらを欠落したまま、制度が導入されるのは、危険のように思うのです。
ところで、話は変わりますが。
拙書『無頼化〜』では、小飼さんも第4章を中心に論じてくださったのですが。
私は、今の日本の問題というのは、「しがみつかざるを得ないが、<勝間和代>にはなれない人が多くいること」だと思っています。
失職が即ホームレスにつながり、普通の幸せが高騰し、幸福になるためのリスクマネジメントが要請される社会では、皮肉なことに「しがみつかない生き方」ができる人というのも、ある程度余裕のある人ということになります。
香山さんのご著書は、あくまでも精神科医師としての臨床経験から発したものであり、日常的な地平にそのまま落とし込むことはできないかもしれませんが。
ただ、論点は。
徹底的なサバイバルゲームへの参加と現状の全面肯定か、あるいはそこからリタイアすることか。
そもそも、その2択しかない状況それ自体だと思うんですね。
それを指摘しつつ、同時に勝間和代VS香山リカの論争はなぜ起こったのか、を検討してみました。
が。
え〜。
「勝ち負けから降りよう」みたいなシンポジウムに呼ばれてしまいまして〜。
そういう二項対立区分しかないような前提、それ自体が、問題だと思っているのですが〜。
ちなみに、前回このシンポジウムに呼ばれたのは香山リカさんだったそうですが〜。
私……そっち系に分類されてるんでしょうか〜(汗)。
時代はダウナーなんでしょうか〜(笑)。
まあ。
勝てる人は少数派ですからね〜。
でも。
救いがそれしかないっていう思い込みは、問題じゃないでしょうか?
なんていうんでしょうか。
こう、「成功に失敗=そこから降りてハッピー」しかないというのは、まるで病理モデルによる治癒しかないという感じで。
それこそ、多種多様な人間の社会参加を、「成功―失敗」でしかとらえられないというのは、乏しいと思うんですね。
私は、人間の創造性や社会参加の様態というのは、そんなに単純なものではない、と思っています。
むしろ、そこを突破してこその新しい可能性、創造性ではないのでしょうか。
でまあ。
悩みましたが。
おそらく、癒されたがってきているであろう聴衆に、こういうイヤ〜ンなことを言う人間が一人くらいいてもいいんじゃないかと(笑)。
まあ、私みたいなマイノリティは、発言の場はとにかくあったほうがいいので。
出てみることにしました。
mixiの水無田コミュ(ってあったんですね〜。私も最近知りました)には、情報のっけましたが。→水無田気流(ミナシタ・キリウ) | mixiコミュニティ
今日はもう、日記が長いので〜。
またのちほど告知します〜。
え〜、まだチラシの決定稿見てないですし〜。変更あったら面倒だし〜、なので。
あ、でも。
コミュには(できるだけ)全般的に、こっちより(たぶん)早めにイベント情報をのせると思いますので〜。
気になる方は、どうぞのぞかれてみてくださいね〜☆
ついでに、こっちも読んでみてくださいね〜☆
- 作者: 水無田気流
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