ゲームの言葉、詩の言葉

ゲーム作家の飯田和敏さんと、お会いしてまいりました〜。
来年年明け早々の1月7日に、東工大で行う講座、「ゲームの言葉、詩の言葉」の打ち合わせです。
分野の異なる創作家さんとお話しすると、いろいろと良い刺激を受けて勉強になりますね〜(しみじみ)。
一番興味深かったのは、テトリス誕生についての飯田さんの見解で。
テトリスは、もともと旧ソ連の軍事技術として開発されたものが、ゲームに転用されたものですが。
開発した核兵器のボタンを押すか、押さないかの二択ではなく、「別のボタンの使い方を示した」ことが、ゲームの誕生につながった、とおっしゃるんですね。


ちょうど、前回も書きましたが。
『無頼化する女たち』でも、「過酷な現実を全面肯定して戦うか、そこからリタイアするしか道はない」という二項対立的なあり方それ自体を問題にしたところで。
昨今は、とくにこの二項対立区分、ないしは二元論で世界を説明する論調が多く見受けられます。
政治もそうですね〜。
小泉政権のときは、「既存の郵政事業にイエスかノーか」でしたし。
今度の民主党圧勝は、積極的に民主支持というよりは「既存の自民党政権にイエスかノーか」でしたし。
私見では、どうも肯定より否定のほうが、より大きく作用するようです。
香山さんの『しがみつかない生き方』は、基調として「勝間和代的なものにノー」を訴え。
そして、その辺の「勝間本」などよりも、よほど支持された、という。


否定こそが歴史の動力源、ということでは、私はヴァルター・ベンヤミンを思い出します。
これは、「週刊ビジスタ」にも書きましたが。
SBクリエイティブ
ベンヤミンは、「歴史の天使は、顔を過去に向け、嵐のただ中を背が向いている未来に向かって飛ぶ」と言いました。
これを受け、ジグムント・バウマンはこう言いました。
「魅力ではなく嫌悪こそが歴史の主要な駆動力である限り、歴史的変化が生じるのは、人間が、自分の状況のなかで感ずる苦痛や不快を悔しく思ったり、それにいらだったりするからである」と。
進化は、希望よりはむしろ、思わず顔を背けたくなるような現実を離れるために、否応なく引き起こされて行くのだ、と言うんですね。


その「否定」のあり方も、重要なのではないか。
飯田さんのお話を聞いていて、そう思いました。
兵器のボタンを押すか押さないか。
どちらかしか選べない世界というのは、やはり乏しい。
その乏しさを否定するところから、ゲームは生まれたのではないか、と。
いや、創作というのは、どのようなジャンルであっても、そうした乏しさを突破し、別の位相をもたらすところから生まれてくるものではないのでしょうか。
私も一応、詩の実作をしている人間ですが。
詩というのは、言葉の通常の用法それ自体を、突破するところから生まれる表現です。
通常、言葉には多くの用法があります。
人を動かすために、指示のために、了解のために、それらの総体としてコミュニケーションのために、というような。
もちろん、それらも重要ではありますが、あらゆる「ために」を越境したり、内破していくのが、詩です。
二元論どころか、それら日常のあらゆる言葉の用法を突破する地点、ロードス島から飛ばねばなりません。
まあ、詩作論にはさまざまな見解があり、これは私の見解であって、違う人もいるでしょう。
また、実作として、私が成功しているかどうかは不明ですが(笑)。


ともあれ。
今の社会が、「サバイバルゲームへの強制参加かリタイアしかない」と設定されていること自体を、もっと問題視すべきだと思うんですね。
ちょうど、そんなトラックバックをいただきましたが(ありがとうございます)。
世界にはもっと面白いことだってあると、私も思いますよ〜。
というわけで。
面白い講義になると思いますので、ご興味のある方は、ぜひご来場ください〜!
詳細は、12月9日の日記を参照してください。
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あ、あと。
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詳細は、12月5日の日記で書きましたので、どうぞご参照ください。
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