3年ほど前になりますが。
研究会報告を聞いていて。
某大学の先生が、「若者の言葉の感覚」について、調査結果を発表したのですが。
学生、専門学校生などの10代後半〜20代前半の人たちが対象でして。
衝撃だったのは。
「民主主義」「人権」などの言葉を「悪いイメージの言葉」と回答する者が、多数派だったという点です。
聞けば。
この言葉が使われる場は、たいてい争議の場で、嫌な言葉だ、という。
……まあね〜。
ムネオ先生が、「人権問題だ〜!」とか言う場を想像すると……。


しかし。
思うに、そのような場合。
人権や民主主義が問い直されねばならないような「事態」が問題であって(たとえば、人権を無視した扱いを受けているような人は、当然異議を申し立てるべきだと思いますし)。
「言葉」に罪はない……どころか、言葉はそれらの問題を可視化し、討議を可能にするツールなわけです。
でも。
その言葉それ自体が「悪」というふうにとらえる人が、多数派……。


今、12月に刊行がのびちった(すいません)新書の原稿にも書いているところなんですが。
どうもこの国は、今完全に、「正しさ」というのは、旗色が悪い。
それよりも、個人の「望ましさ」が優勢で。
「正しさ」のために何かを発言したりすると、概ねどこかで冷笑が待っています。
一方、選挙や政策の場では、正しさにのっとった言葉が大量に踊っていますが。
それらにも、多くの人はしらけています。
正しさを旨とした言葉に、何か非常に空虚なものを感じている。
響くのは、かろうじて自分が得をする(望ましい)言葉だけ、という。
それが、今の「言葉についてのリアリティ」なんでしょうね〜。


こんな状況では。
詩は、空虚を空虚のまま、つかまえるしかないのかもしれない。
私は、コミュニケーション形態の変容がもたらした「言葉の速度と空虚」をずっと追ってるかんじなんですが。
たとえば、低温化した経済とか、正しさが効力をもたないことがリアルな社会だとか、その一方で、メディアが過剰に感情や感動を煽る日常だとか。
そういう状況下、言葉が受肉する先を見つけられずに浮遊しているとか。
この間、そんなような虚をモチーフに、朝日新聞に詩を書きました(成功しているかどうかは、不明ですが)。
10月10日(土)夕刊掲載予定だそうです。
今回、(私としては)普通に書いてます〜(笑)。
この間、『文藝春秋』に書いたのと、地続きなかんじです。
ご興味のある方、どうぞご笑覧ください〜。